Step! ZERO to ONEを思い返すところには、どうやらアニメと現実はつながったということらしい。

今回得られた結論。

  • アニメと現実は相似の関係にある。
  • 現実のヲタクと、アニメの沼津の民は相似の関係にある。

先行研究

この方のツイートを見た。ちなみにこの前後のツイートもけっこう尖ってて面白かった。
で、このツイートを見て自分なりに今回のライブについて考えてみる。

以下本文。

違和感のないのが違和感。

まず思い返したのは、前に書いた記事(『Step! ZERO to ONEさんも大役背負わされて大変だなと思った。』)でも触れたとおり、妙に綺麗に印象が上書きされた『Step! ZERO to ONE』だ。

この楽曲は確かに不自然なレベルで大役を任された。そのはずだ。
だが、それにしては、違和感がない。

当初の意図がどうだったとか、そんな小賢しいこととは無関係に。
違和感を覚える程に違和感なく、印象がライブのものにすり替わっている。

この点がどうにも気になっている。

書き換えられた背景を考えてみる。

原因を考える前に、そもそもの、この書き換えが起きた背景について考えてみたい。
いくつか要素があるので、羅列してみる。

  • ライブはアニメをなぞる形で行われた。
  • アニメはAqoursが結成されるまでの話=前日譚である。
  • アニメは最終的に君ここに繋がった。
  • 一方で今回のライブはs021につながった。

これらをまとめると、以下のようになる。

アニメはAqoursの前日譚であり、そして今回のライブはアニメを追体験する形で行われている。
そして、最終的に、アニメもライブも1stシングルに繋がっている。

僕はこれを、アニメと現実の足並みを揃えるための試みである、と感じた。
(要するに先行研究と同じ結論である)

そして。

現実とアニメの2つのAqoursが、ライブを通して綺麗に相似になったと感じた。

Aqoursに感じた相似と、それまでの嘘臭さ。

ここでいう相似というのは、ストーリーというわけではない。
別に、最初に誰からも見向きもされなかったというわけではないし、メンバー集めに悶着があったわけでも、2年前の確執があったわけでもない。

では、何が相似なのか?

ここで言っている相似とは、ファンとファン以外の勢力図だ。
引用したツイートの前後でも似たようなことを言っているのだが。

アニメの嘘臭さについて

アニメの放送で語られた『ゼロからイチ』という表現は、放送直後の時点で、現実のAqoursからは程遠いものだった。

先達の影響もあって、無条件にファンになる人は多い。
ちょっとしたイベントであってさえも、下手なコンテンツよりよほど人の動員がある。

そんな状況で、しかしアニメでの演出は次のようなものだった。

『イベントでの得票数がゼロ』
『ゼロをイチにしたい』

・・・これらの演出に感じる嘘臭さは、表立って語られることこそなかった。
だが、多くの人が感じていたと思う。

ラブライバーはバンドリを推せ

コンテンツ的に、失敗はありえない。

どうせ勝ち確。

『だから、僕が全力で応援する必要はない。』

そう思って、一歩引いたところから見ていたヲタクも多いはずだ。

偉いせんべいも言ってる。バンドリを推せと。

アニメの内浦=現実のライバー。

だが、現実に目を向けてみると、やっぱりまだまだ、サンシャインを知らない人の方が多い。
紅白に出たμ’sだって、知らない人が多い現状だ。

『なんでゼロなの!?』

そう叫びたくなってもおかしくない程度に、僕らの大好きなこの作品は、まだまだ、ぜんぜん、これっぽっちも、世の中には知られていない。

伊波さんは、2日目の挨拶でこう言っていた。
『もっともっと多くの人に知ってほしいという欲が出てきた』と。

ライブが成功した直後に、どんな大口を叩くのだ、と思ったものだが。
ここまでに述べた考えを踏まえて、この発言を見てみると、その意図がわかってくるように思う。

つまり、内浦の外へ『ゼロからイチ』を成し遂げようとする高海千歌(アニメ世界)と、現在のファンの規模に満足せずにさらなる飛躍を目指す伊波杏樹(現実世界)が、完全にリンクしている。

この相似において、ヲタクはアニメ世界における内浦の民である。
そしてこの発言によって、現実のAqoursの歴史は、アニメ世界に寄り添う形となった。

むすび:Aqoursなら、10って言っていいのかもしれない。

というわけで、ライブの感想ツイートを先行研究として、自分なりにライブに感じたことを書き留めてみた。

アニメにおける内浦の民と現実におけるヲタクとは、相似の関係にある。
ここからどのような結論を得るかは、それぞれのヲタクに委ねるほかないが。

この考えを採用すると、「10」についても、もしかして発声してもいいのかもしれない。
一緒に輝こうとしてもいいのかもしれない。
そんな気持ちになってくる。

錯覚かもしれない。

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